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小峰 尚(こみね ひさし)
平成転職事情
小生は、21年間勤務した日産自動車からラッセル・レイノルズ・アソシエイツという米系の人材コンサルタント会社に転職した。日本の大企業に勤めるといわゆる終身雇用制度の下、第二の人生を送る先を自分で探す必要が無かった諸先輩と異なり、自ら第二の人生を選択した経緯、思いについて、人生の区切りとして纏める機会を橋本会長より頂いたので、駄文を連ねることとした。
一年留年したものの司法試験受験に失敗して、昭和53年に、就職先として選んだ日産自動車は、技術力を背景にヒット商品を日本市場に提供していたのみならず、海外への事業展開もトヨタに比して先行して積極的に行っており、国際的な舞台での活躍を期待して入社したものである。
入社後、国内営業に配属され、敵地名古屋でのセールス出向を経験したのち、一貫保険という生産車両の工場オフライン後ユーザー納車までの事故に対する保険制度の運営を担当した小生は、販売会社負担保険料制度の改定、修理料金表の設定等の損害率改善活動の成果として一貫保険料の削減を実現することができ、いわば、そのご褒美として、一年間の米国イリノイ大学ピアタビジネススクールへの留学の機会を1984年に得た。
この留学は1年間のものでいわゆるMBA(経営学修士)を取得できるものではないが、大学院の経営学の授業(マーケティング、会計学等)の他、米国企業訪問(バトワイザーで有名なアンハウザ−ブッシュ、化粧品・薬品会社のイーライリリ−、トラクターのキャタピラー等米国中西部の企業)が組み込まれており、マーケティング理論の勉学のみならず、米国での生活を経験するのみならず、米国の企業社会を垣間見ることができる優れたプログラムであった。
留学終了後、日米自動車部品問題が政治問題化し、若手を米国の首都ワシントン事務所に派遣するという話があり、その話に飛びついて、ワシントンDCに赴任したのが1986年であった。今思えば、この決断が日産における人生に大きな影響を及ぼしたように思われる。ワシントン事務所以降、自動車の本業からいわば虚業の世界にどっぷりとつかることになるからである。
ワシントンには、日本の自動車メーカー3社が事務所を設置し、通産省と協力しながら、情報収集、ロビイング活動を展開しており、日産の場合は、工場進出をしていたテネシー州の議員達とのパイプを生かし、部品問題の沈静化及び、日本車輸入規制法案の反対活動等を米国流のグラスルーツ運動(従業員が議員に直接手紙を出したり、電報を打つという直接民主主義に根ざした政治活動で、広報活動としてはエディトリアルキャンペーンとして社説に保護貿易主義反対、自由貿易主義支持の論陣を掲載させる等)を展開した。
4年間の任期を終了して帰国したところ、それまで送っていたワシントン情報の受け手である渉外部という部署で、日本国内での政官財界活動を担当することになり、仕事柄、経営トップへの案件説明という機会を得ることが多くなり、自動車という本業からますます離れた業務を担当することになった。渉外部時代の思い出は、ブッシュ大統領訪日時の一連の広報対応と久米会長のダボスフォーラム出席への同行がある。
ブッシュ大統領が不況に苦しむ米国の財界人を引きつれて来日することが確定した1991年の秋、日本の自動車業界は、当時の宮沢首相に、業界として出来うる協力をするようにと指示され、米国製自動車部品の購入計画、米国製自動車の輸入促進等に関する「ボランタリー・プラン」を発表した。この取りまとめは、通産省自動車課と経営トップの間に入り、大変な苦労をしたが、大統領の訪日に合わせた広報発表に漕ぎ着けることができた。
ダボスフォーラムはスイスのダボスと言うスキーリゾートで毎年2月に開催される財界人の会議であり、世界中の財界人が一堂に会し、また、政官界の主要人物も集まるというイベントである。この会議に、パネリストとして出席を要請された久米会長(当時)が初めて出席することになり、キーノートスピーチの原稿を作成したり、会議の事務方として同行する栄誉に浴した。久米会長には、渉外部時代、とりわけ課長に昇格してからは、直に仕え、氏から多くの薫陶を受け、小生にとって、日産の人生で最も充実した時代となった。
久米会長が業界団体の会長を辞して、暇になるかと思ったら、突然、1994年東京モーターショーの事務局である自動車工業振興会という業界団体に出向を命じられた。この団体は20名程度の小さな所帯であり、2年に一度のモーターショーの運営を担当しているほか、自動車ガイドブックと言う本を出版している団体である。小生は、メーカー出身者として初めて、資料部長に就任し、ガイドブックの編集、同CD-ROM化、モーターショーのプレスセンター長と言う大変面白い仕事を経験させてもらった。当時は、インターネットがそれほど普及していなく、モーターショーの広報ツールとして利用したところ、大変なアクセスを得て、自動車業界としてもホームページを各社が相次いで設定するきっかけともなった。今では、世界中のモーターショーがそれこそ、行かなくてもホームページで楽しめるようになっており、隔世の感がする。
自工振時代、最も充実していたのは、マルチメディア関連の協賛イベントの企画であった。例えば、ソニーのプレイステーションの協賛を得て、会場でグランツーリスモというソフトの体験コーナーを設置して来場者に今までとは一味違ったモーターショーの楽しみ方を提案したりした。
これら協賛イベントの経験を通じて、時代の先端を行くビジネスの面白さを再発見し、日産でのキャリアの将来に疑問を感じ始めたのが今回の転職のきっかけにもなった。
1998年に日産自動車の広報部社会文化室長として復職し、15年間続いている社会貢献活動のメインイベント「童話と絵本のグランプリ」の15周年事業に取り組んだり、これから日本の社会のなかでますます重要な役割を担うことになる非営利団体(NPO)でスタッフとして働く学生に奨学金を支給するという「NPO ラーニング奨学金制度」を日本で初めて立ち上げるなど、新しい案件に取り組んだものの、会社の経営不振から社会貢献事業の予算は削減され続けており、いわゆる仕事の遣り甲斐を見出せなくなってきたのが今からほぼ一年前のことである。
広報部の重要な業務は、四年間出向している間に、自分より若手の課長に重要な仕事は任されており、社内の他部署を見ても、同期は多く、今から割り込める隙はなさそうな事情であった。師事した久米会長も既に、社友という立場に引退しており、それほど義理を感じなくてすむ状況だったこともあり、転職を決意したのである。
とは言っても、そう簡単に45歳目前の男が転職できる仕事が転がっているわけではなく、結局、以前から何度か転職話を持ちこんでくれていたラッセル・レイノルズに応募することにしたのである。
まず、転職先としてこのヘッドハンティング業界を選んだのは、次の理由によるものである。第一に、ヘッドハンティングと言うビジネスは欧米では30年以上も昔から盛んになっているが、日本でも既に15年の歴史があるビジネスで、今後、日本の大手企業が抱えている優秀な人材を子会社に送り込めるという終身雇用制度が崩壊するのは目に見えていること。第二に、その場合、優秀な人材ほど、より遣り甲斐のある仕事、報酬的にも魅力の有る会社への転職を目指す傾向が強まると考えたこと。第三に、ラッセル社は世界で5本の指に入る大手の会社であり、また、外資系に似合わず、売上優先ではなく、信用第一の方針のもと、株式会社ではなく、弁護士事務所と同様のパートナー制を採用している会社であることがあげられる。
また、ラッセル社は採用に際し、キャリパーと言う適性試験を行っており、その結果が良かったことから、ニューヨーク本社サイドも採用に熱心だったという幸運にも恵まれた転職であった。ラッセル社は、企業の経営者を他社からスカウトしてくるエグゼクティブ・サーチの会社である。厳密に言うとヘッドハンターとは異なり、あくまでもコンサルタントとして弁護士と同様、顧問契約を結び、事業計画の展開に必要な人材のスペックの具体化、特定をアドバイスすると言うのが仕事の内容である。とりわけ、日本に進出している外資系企業や進出しようとしている外資系企業から顧問料を前金で頂き、平均して3ヶ月以内に候補者を探し出すという仕事をしている。平均して月に2件程度の依頼を受け、人探しをしているが、業務の性格上、平日には会えない人と会わなければならず、土日も返上するということも多い。
また、クライアントとのコミュニケーションを密に行うために、週末でも、電話をしたりe-mailを打ったりと、木目の細かいサービスを売り物にしている会社だけあり、仕事は大変では有る。しかし、入社が決まった人から本当に良い会社を紹介してもらえたと感謝されるわけでその一言が苦労を吹き飛ばしてくれる、有る意味では非常に遣り甲斐のある仕事である。
さらにいうと、当社のクライアントは、外資系企業のみならず、人材不足に悩む中小企業も急速に増えている。戦後の高度成長を遂げた日本の企業社会の人材(財)の偏りは、低迷している日本経済を象徴するかのようにも思われる。「企業は人なり」という通り、本当に経済的に発展が期待される産業に適正な人材が配置されていないから日本経済は米国経済に遅れを取っていると言っても過言ではないのではないか。小生が米国に滞在した1980年代末は、米国では、自動車、電機といった従来型の基幹産業から通信、ハイテクといったサービス産業以外の新しい産業への人材シフトが極めてスムーズに完了して90年代の米国経済の隆盛を招いたという側面に着目してみて欲しい。
日本の伝統的な企業は、相次いでリストラを発表し、今までのような雇用吸収力を失って行くわけであり、これからの若者は日本企業よりは給与の高い外資に就職していく時代が到来している。サラリーマン個人個人が、このような企業社会の変化にどうやって追いついていくのか、時には転職と言う選択肢を持って、一度しかない人生を何度もエンジョイして行こうと考える人達がこれからますます増えて行くのではないだろうか。そういう人達が望むサービスとは信頼できる相談相手による木目の細かいサービスであり、そういうサービスを提供できる人材は残念ながらまだまだ今の日本には数少なく、また、だからこそ、そこに大きなビジネスチャンスがあると信じているのである。
以上、思いつくまま、自分のサラリーマン人生を振り返ると同じに、これからのコンサルタントと言うプロフェッショナル人生を始めるに当たっての意気込みを述べさせていただいた。このような話がどなたかのご参考になればと思いつつ筆を置くことにしたい。